2020/4/8
|
|
自分が嫌いだった私が、自分の「したい」を取り戻して、「エビ料理食べたい」って言えて、今はまぁまぁ自分が好きかもですって話。 |
|
こんにちは、30代女です。 教科書通りの生き方。 自分が嫌いだった私。 今は、 何が変わったんだろう。 苦しいことは変わらずあるけど、 今回私は、これを読んだ人が、 「なんとなく明日頑張ろう」 と思ってくれるよう、願いを込めながら書きました。 ■否定が怖かった子ども時代我慢が日常的だった。 警察官の父によく感情のままに叱られたせいか、 我慢が当たり前だった。 だから、我慢してないように見える人、 今はもう、羨ましさと憧れと、少しの嫉妬しかない。 現に、今、大声で歌いながら歩く人を見ると「自由でいいねぇ」と思うし、 小さい頃の未熟な私は、我慢しないと、わがままだと、誰かに非難されると思ってた。 「否定されること」を恐れ、その先にある「嫌われること」を最も嫌ってた。 だから、「ダメ」「おかしい」「違う」「悪い」に人一倍敏感で、その言葉と目が、自分に向けられないよう必死だった。 「あの子は家がお金持ちなのを自慢しているよね」という陰口を聞けば、 「ザネ流★超絶対嫌われない教科書」を自分なりにカリカリ編集していった。 その教科書は、私の「したい」を打ち消すものだった。 本当はあの子の手伝いしたいけど、「いい子ちゃんぶっている」って「先生に媚び売っている」って言われることが怖いから見ない振りしよう。 とか。 本当はこの少し奇抜な服着たいけど、みんなが言っていたよね、「こういうの着こなせるのは可愛い子だけだよね」って。「可愛いと思ってんの?」「目立とうとしてるね」とかって陰口言われたら嫌だから、いつもの服でいいや。 とか。 そんな風に、せっせせっせと編集した『嫌われないための教科書』は、 他人の中に自分の在り方を見出してたら、 “お前さんが目を向けてくれんからさらばじゃ”と見切りをつけて旅に出たか、 ■「自分が嫌い」それに気付いた出来事高校3年生の頃、大学の推薦入試を受けることにした。 初めて自分を推薦するなんていう、なんとも大胆でおこがましい場面に出くわした。 「……私のいいところってどこかなぁ///?」 その時かえってきた言葉は 「真面目。」 ‟面白くない人間” そう言われたように感じた。 付き合った記念日とか、ゲラゲラ笑い転げた理由とか、去年どこに旅行に行ったとか、すぐ忘れてしまう私がこの時のことを鮮明に思い出せるのは、本当に本当に、ショックだったから。 (これを書きながら辞書で「真面目」をひいてみたら、今思うと誉め言葉だなって思えたのですが、その当時はショックでしかなかったのです。) 悔しかった。 ■「自分の良さ」「自分らしさ」ってなんだろう。今の私は、真面目とは結構遠い。 後で書く小さな経験で、 これで、大丈夫だよね?うん、大丈夫だ。よし、大丈夫だったね。 今の私は遅刻をする。「どうしても髪型がうまくいかずに遅刻しちゃった、てへへ、どこで佐藤健くんに会うか分かんないし!」(←早く起きればいいじゃん!) 今の私は旅行の下調べを、全くしない。「だって、あなたとならどこ行ったって楽しいじゃん♪」(←人任せにすな!) 今の私はときどき人の話を聞いていない。「…は!今日の夜のドラマ、録画予約したか不安になってました!」(←言い訳にならない!) / そう否定されても仕方ないな、と思うような主張をしている。 「いい加減な奴だ」と誰かに嫌われているかもしれない。 でも今は、まぁまぁ自分のことが好き。 自分の「したい」を大切にしているからだと思う。 だから誰かの「したい」もあっさり許せる。 禁煙の職場でアイコス吸いたい、も、笑えてしまう。 今、私のいいところを誰かに聞いたとき、真っ先に「真面目」と言われるだろうか。 今なら、真面目と言われたところで「ウェーーーーイ♪」くらいにしか思わないのだけど。 ■「いつから、なんで、自分の想いを口にできるようになったんだっけ?」思い返した。 たぶん大学生の頃(正確には卒業する頃)あたりから。誰にでも認めてもらえるキッチリとした枠の中だけで住むようになっていた少女ザネ。 少しだけ勇気を出して、恐る恐る、汚れてない靴で踏み出していた。 「大丈夫こっちにおいで!」と手を引いてくれるまではないまでも、 大学時代、信頼できる人たちの中で、 「エビ料理が食べたい!」 何てことない自分の「したい」。 ■キャッチボールして、信頼の紙を重ねて、それか愛情とか自信になる最初から、信頼できたわけじゃない。 ————————————- 怖いけど相手を少しだけ信じて、 「毎回毎回だけど、エビ料理食べたい…」って投げたい球を投げる。 「またか(笑)好きだね!」ってキャッチしてもらえる。 「あんまりお金ないからカフェがいい」って投げ返してくれる。 「あぁコーヒーも飲みたいね」、わたしもキャッチする。 一瞬、頭のなかで ((( お金ないって……断られてる? ))) ってよぎるんだけど。 投げたい球を投げてもらえたことが嬉しいから、バウンドしてもいいから、トンネルしてもいいから、追いかけて拾うんだ。 よし、また投げたい球を、信じて投げてみよう。 「じゃあさ、エビアボカド丼のあるカフェ探してみよう!」 今度はさっきより怖くない。 ————————————- 愛情、友情、自信って一層一層、実はうすーいA4一枚の紙みたいな、トレーシングペーパーみたいなものが積み重なった塊みたいなもので。 キャッチボールしながら、キャッチしたり投げたり、投げ返してもらったりして、 周囲の肯定の目のお陰で、少しずつだけど、小さな「したい」が顔を出せるようになってきた。 ちっぽけな「したい」が帰ってきた。 ■否定は誰かを、自分を、ぺしゃんこにする息苦しかった昔を思い出す。 地元のスクールカースト上位層は、否定的な発言が多かったなぁ。 みんな確固たる自分の位置を確立させたい。 上位であるために、誰かのキラキラのひょこっと顔出す芽を摘もうとしていたんだろうな。 「普通に考えて、それってダメじゃん?」 その発言力の重圧は、人の口から出たときより自分の口から出たときの方がもっと、 まだか弱く新芽レベルのわたしの「したい」は、今でも、 ■結局のところ、自分を好きになる!って?ありふれた言葉。 自分を好きになる。その意味が分からなかった過去の私。 誰かに嫌われないことで、自分の価値感じてた。 男性と付き合えば、好きでいてもらうことに精一杯。 この人に何か弱みを握られてるんかいってくらい。 我慢に我慢を積み重ね、相手の期待通りにして、 相手の「好き」にしがみついてた。 ■■———————————————-■■ 自分を好きになるためにすることは、 ■■———————————————-■■ 今だから、そう思う。 「我慢がしたい」なら、それでもいいと思う。 周りを信じて、「したい」を言ってやってみて初めて、自分を生きている実感がわくことを知った。 そう、私にとっては、「エビ料理食べたい」「変だと思われても着たい服を着る」それを否定せずにキャッチしてもらえたこと。 「したい」をして、自分を生きて、自分が好きになる。■自分の「したい」を外に出すには、肯定してくれる“誰か”に出逢うといい。だって、その「したい」は一部の人に、間違っているとか、自分勝手だとか、浅はかだとか、‟否定の対象”になるかもしれない。 ******************************************* 「したい」は、とっても繊細なんです ******************************************* 肯定してくれる人がいる、見守ってくれる人がいることで、恐る恐るでも、自分の小さな愛すべき「したい」が顔を出せる。 いま、昔の私のように自分が嫌いで、自分を生きていないと思う人は「したい」のボールを誰かに投げてみてほしいなと思う。 今はまだ、投げるのに憶病かもしれないけど、 自分が、生き生きしてくるはず!! ■なぜココトモハウスのスタッフをするのかココトモハウスは、「したい」を口にしやすい場所だと思うから。 それは世間一般に価値あるとされそうな「したい」であるとかは、関係なくて。 「仕事せずに寝ていたい」だったり「本当は好きな仕事したい」とかでいいと思う。 ココトモハウスに訪れる人は、少し疲れた人、誰かに自信の紙を奪われた人、愛情の積み重ねが崩れてしまった人、ちょっと不器用な人が多い。 だから、ここにいる人は、相手の「したい」の大切さや尊さを知っている。 すぐに自分を好きになれるわけじゃない。 実感できたら、「えーエビ料理?やだー」「何その服、ダサ!」って言われたって、平気。 ココトモハウスや、どこか「したい」を大切にしてくれる‟場”でキャッチボールして信頼を積み重ねてほしい。 ■今、私の「したい」は「エビ料理食べたい」「カフェで美味しいコーヒー飲んでうふふオシャレと思いたい」「休日はパジャマでいたい」とか、そんな小さなこともたくさんあるけど。 「誰かの“したい”をゆっくり外に出す勇気を出す、お手伝いがしたい」(長いし、出す2回言っちゃってる!) きっとそうすることで、私が、自分を生きていく勇気が湧くって信じてる。 ■最後に…甲殻アレルギーの方、エビエビ言って、申し訳ありませんでした! |
|