2020/7/18
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生きているだけの自分に価値はないのか |
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本日は、生きる価値についての話です。 私達は、ただ生きているだけでは価値がないのか。 皆さんもそんな哲学的なことを、一度は考えたことがあるのではないでしょうか。 というのも、私はつい先日、「頑張ること」は自分のためにあるもので、他人軸で頑張っても幸せは訪れない、というブログを書きました。しかし、書き終えると同時に、心の中には何かもやもやとした気持ちを抱えていたのです。 それは、「頑張る」ということは自分軸の中にあったとしても、「その頑張りの評価は他人に委ねられる」ということを考えたためです。 結局のところ、頑張ったことへの評価を他人がするのであれば、病気や様々な困難を抱え、ただ生きることを頑張っていても、誰かの役にたったり、価値を生み出せなければ、それはまったく価値がないことなのでしょうか。 私が居場所活動をしているなかで、「自分には生きてる価値がない」、そんな悲しい言葉を聞くことは、残念ながら珍しくありません。 自分が苦しい中を頑張って生きているのに、なぜ私達は自分を価値のある人間と思えないのか。それは、本当に価値がないからなのか、それとも、価値があるのに、そう思えないだけなのか。 自分を「価値のない人間」だと考えている方がいたら、一緒に「価値」について考えてみませか。 価値とは何か価値について語るには、まず価値という言葉の定義を知る必要があります。そこで、価値という言葉について辞書を引いてみました。価値について調べたところ、下記の3つの意味がありました。
価値があるとは、何か役に立つものだったり、また経済的な価格、絶対的な真理や美しさを持っているということなのですね。 生きているだけの自分に価値はあるのかでは、価値という言葉の意味を理解したところで、みなさんに改めて問いかけたいと思います。 あなたは自分を価値のある人間だと思いますか? 誰かにとって役立つ存在だったり、経済的に市場価値をもっていたり、はたまた絶対的に美しい存在として、あなたはそこにいるという自信を持てるでしょうか。 こうして改めて考えると、自分が価値のある人間なのか、ますます自信を持てなくなる気がします。 世の中で自分にしかできない、ということはないような気がするし、経済的な意味でも、自分の市場価値があるとは思えず、また絶対的に美しく、善い存在だという自覚もありません。 役に立たないものに価値はないのかそれでは、やはり「生きているだけの自分」にはなんの価値もないのでしょうか。 ここで少し、皆さんに考えて欲しいことがあります。皆さんは、”優生思想”という言葉を知っているでしょうか。 優生思想とは、健康で社会に役立つ者にこそ価値があり、価値がある人だけを残していこうという思想です。 最近では、この優生思想に基づくと思われる大事件が日本でも起きました。それが”相模原障害者施設殺傷事件”です。 ※障害者入所施設、津久井やまゆり園にて、19人の障碍者が殺害された事件 事件を起こした植松被告は、障害者は役にたたない存在、そんな身勝手な正義に基づいて実に19人もの尊い命を奪うという、戦後最悪の大量殺人事件を引き起こしました。 事件の影響は大きく、命の価値について多くの論争が起こりました。障害者は生産性がない、税金の無駄使いだ、こんな容疑者の主張に賛同する人も少なからずいました。 また、2018年には雑誌「新潮45」に、国会議員の杉田水脈氏より、「子供を産まないLGBTの人は生産性がなく、彼らに税金を使うのは無駄使いだ」といった発言が掲載されました。 生産性を基準にものごとを考える杉田議員の発言は、相模原殺傷事件と同じく、優生思想に繋がるものとして、多くの方の反対にあいました。 優れたもの、役に立つ者だけに価値がある。それ以外のものに価値はない。 こんな考え方は心底ぞっとするものですよね。 遺族の手紙から優生思想は恐ろしい考え方です。 しかし、だからといって、みなさんは「世の中の役に立たない人」でも支援されるべき理由を説明できるでしょうか。 私は以前、重症心身障害者の方々が入居する施設にいたことがあります。彼らのほとんどは、自分で自分の体を指一本動かすことができません。 もちろん、話すことも、こちらからの呼びかけに答えることもありません。 おそらく、杉田議員のいうところの”生産性”とはかけ離れた存在でしょう。日本では、そんな重症心身障害者の方達のために、莫大な税金が使われています。 もし、あなたが重症心身障害者の親だとして、「なんで役立たずのあなたの子供に税金が使われてるんだ。そんな人間に、生きている価値はない。」と言われたら、「自分の子供には生きている価値があるんだ」と答えることができるでしょうか。 もし僕がそう問われたとしたら、自信を持って、それでも生きてる価値がある、といえる自信はありません。 ここで一つある手紙を紹介したいと思います。津久井やまゆり園の遺族の方の手紙です。遺族の方は、事件を受けて何を感じたのか。少し長い引用となりますが、お読みください。(一部を省略して記載しています。全文はこちら)
私はこの手紙を読んだとき、涙がとまりませんでした。美帆さんのお母さんにとって、美帆さんは何より価値ある存在だったのでしょう。 きっと美帆さんのお母さんなら、娘さんが役に立たない存在だと言われても、「生きている価値はある」と自信をもって答えることができるのだと思います。 たった一通の手紙。でもその中には、確かに美帆さんの命がそこにあったことを証明してくれていると思います。 命の価値の答え私は、美帆さんに全くお会いしたことはありませんが、美帆さんのお母さんの手紙を読んで、命の美しさを感じました。 文面からでも、一生懸命に生きる姿が伝わって来て、世の中に役に立つ何かを生み出していないとしても、人の命には価値がある。そう思わせる何かを感じたのです。これこそ、私達が持つ根源的な価値そのものではないでしょうか。 冒頭、価値には3つの意味があるとお伝えしました。役に立つものや、経済的なもの、そして哲学的な価値の3つです。人が生きているだけで持ちうる価値とは、この哲学的な価値である「あらゆる個人・社会を通じて常に承認されるべき絶対性」なんだと思います。 そして、このことに気が付いた時、実はこの哲学的な価値というのは、私達の生活のなかで、すでにある言葉によって表されていたことに気が付きました。 それは「自然権」という言葉です。自然権とは、人は生まれながらにして、守られるべき自由や生存していく権利をもっているという考え方です。 自然権の概念は、古代ギリシアの時代から存在したと言われています。つまり私達は、社会というものが形作られた頃から、命というものが尊い存在であり、生きていることそれ自体が価値のあるものだということを、感じ取っていたのだと思います。 生きることは、自己実現そのもの生きていることの価値。なんとなくですが、その正体が見えてきた気がします。私達の命が持つ普遍的な美しさやエネルギーは、社会が形作られるころから、私達自身が自然的に感じてきたものなのではないでしょうか。 だかこそ、「自然権」は私達の社会の中で自然的に発生し認められてきた。 そう考えれば、私達がただ生きていることへの価値というのは、実は社会に十分に認められているのではないでしょうか。例えば、日本の憲法には、「生存権」が認められています。 障害者の方にも、様々な福祉制度が用意されていますし、健常者の方にも生活保護制度があります。今の日本では、しっかりと福祉と繋がっていれば、生きていること自体が脅かされることはほとんどないのではないかと思います。 実際に、日本で貧困により餓死してしまうという人はほとんどいません。(2018年度は17人) 客観的にみれば、人が生きていくことは権利として認められ、そして国家レベルで守られている状態にあるといえると思います。ではなぜ、多くの人が自分の存在に価値がないと思ってしまうのか。 その答えは、私達にとって生きていることへの価値とは、ただそこに生きているだけではなく、自己実現そのものになっているからではないでしょうか。 人間の欲求というのは、全部で5つのものがあり、下位の欲求が満たされることで、上位の欲求へ向かっていく、マズローの欲求5段階説という理論があります。 図のとおり、マズローによれば、欲求は、生理的欲求から段階を経て、自己実現への欲求へと人の欲求は移っていきます。 今、日本では飢え死にをする人はほとんどいません。また世界的にも優れた医療保険制度があり、戦争もありません。生理的な欲求や安全の欲求はかなり高いレベルで満たされているといえます。 そんな中で、私達がもつ欲求は、自己実現だったり、承認に重きを置かれるようになってきた。 そして今私達が求めるものは、仕事について社会の中で役割を持ちたい。そしてその仕事で収入を得て、より文化的な生活をしたい。結婚して家庭を持ちたい。そんな未来への自己実現や社会から認められることに重きを置かれているのではないでしょうか。 どうなりたいか、ではなくどうありたいかを大事にするでは、いったいどうすれば、私達は自分の価値を感じながら、生きていくことができるのか。これはとても難しい問題です。 私達が生きていることを実感するために満たされるべきものが、自己実現欲求や承認欲求であるのなら、自分の力だけでは実現できないことも沢山あります。 そこで一つ提案したいことは、自分がどうなりたいのか(doing)という視点ではなく、自分がどういう状態でありたいのか(being)ということに重きを置いてみることです。 doingとbeingとはdoingとは、具体的な行動を指します。目標を決めて達成する、仕事で成果をあげる、ということですね。対してbeingとは、感情やあり方を指します。 自分に生きる価値がない、そう感じやすい人は、beingを大事にしてみることを考えてみてください。 もちろん、目標を達成したり、目に見える成果をあげることは素晴らしいことです。しかし、例え結果がでなくても、自分の中で大きな挑戦をしたり、頑張ったというbiengを大事にすれば、例え結果がでていなかったとしても、その経験自体が価値になります。 結果としては失敗した。しかしそのために自分は頑張った。困難に挑戦し、積極的に関わった。そんな風に自分自身を捉えられれば、自分への価値の捉え方も変わってくるはずです。 以前、ココトモハウスにきた利用者さんがこんなことを言っていました。 「自分は3年間も頑張って不安障害を克服した。本当に死ぬような思いをして頑張った。でも、面接ではそのことはぜんぜん評価されない。自分の頑張ってきたことが評価されなくて、悔しい。」と。 みなさんは、この話を聞いてどう思うでしょうか。話してくれた利用者さんは、価値のない人なのでしょうか。 私は決してそうは思いません。利用者さんの頑張りに価値がないのではなく、ただその時会社が求めたものは、不安障害を克服して頑張ったという人ではなく、ビジネスとして結果を出せる人だったという話で合って、会社という場所が求める価値に合わなかっただけなのです。 自分の求める自己実現を、会社の面接に受かる、というdoingではなく、会社の面接を受けられるようになった、というbeingにより重きをおけば、自分を十分に評価することができるでしょう。 とはいっても、何もかもを自己満足で完結しろ、ということを言っているわけではありません。他人から認められたい、自分の目標を達成したい、という欲求を持つことは大事です。ただ、それだけを見るのではなく、ちゃんと自分を見てあげることで、私達は自分の価値を見失わずにいられることでしょう。 終わりに私はこの世界を生きていて、私達の価値観は、どうしても結果や何をしたかではかられがちだと感じています。効率的なもの、合理的なものこそ正義で、そこについていけない人は否定されてしまう。 そんな中では、自分の価値を自分がどうあるか、という気持ちで測ることが難しくなっているかもしれません。 今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。それでは、みなさんまたお会いしましょう! |
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